社会

21Lessonsの著者が最初に書いたサピエンス全史(上・下巻)を読んで

最近「21 Lessons」という本をを本屋でよく見かけるのでそう言えばこの著者の「サピエンス全史」を以前感動して読んでブログにその感想を書いた記憶があり「はて、どんなブログを書いたのだろう」と読み返してみた次第です。

下記の記事は私が自身のこのブログサイトを立ち上げる前に別のブログサイトに書いた「サピエンス全史」についての記事(2017年8月26日)を加筆・修正したものです。

ようやく「サピエンス全史上下巻」(河出書房新社)を読み終えた。
イスラエル人でヘブライ大学教授のユヴァル・ノア・ハラリだ。
世界30カ国以上で売られている本で、日本でも今年評判だった。(日本での初版は2016年)
読んでみると非常に知的で刺激的な本でした。

自分が言葉でうまく表せないことを平明に書いてくれています。
ちょっと長くなりますが一部抜粋すると、

(中略)

では、中世の祖先たちは、死後の世界についての集団的妄想の中に人生の意味を見出していたおかげで、幸せだったのだろうか?まさにそのとおりだ。

そうした空想を打ち破る者が出ないかぎりは、幸せだったに違いない。

これまでに分かっているところでは、純粋に科学的な視点から言えば、人生にはまったく何の意味もない。

人類は、目的も持たずにやみくもに展開する進化の過程の所産だ。

私たちの行動は、神による宇宙の究極の計画の一部などではなく、もし、明朝、地球という惑星が吹き飛んだとしても、おそらく宇宙は何事もなかったかのように続いていくだろう。

現時点の知見から判断すると、人間の主観性の喪失が惜しまれることはなさそうだ。

したがって、人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。

中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も妄想であり、現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や、国民主義的意義、資本主義的意義もまた妄想だ。

(中略)

それならば、幸福は人生の意義について、個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることかもしれない。

私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものであるかぎり、私は自分の人生には意義があると確信し、その核心に幸せを見出せるというわけだ。

これはなんとも気が滅入る結論ではないか。

・・・・・・

とても長くなってしまいましたがこんな文章が各章ごとに続きます。

「人々が自分の人生に認める意義は、いかなるものもたんなる妄想にすぎない。」なんて「そうだ、そうだ」なんて思いながら読みました。

また「私個人のナラティブが周囲の人々のナラティブに沿うものであるかぎり、私は自分の人生には意義があると確信し、その核心に幸せを見出せるというわけだ。」なんて要は「自分を周囲に合わせて生きることができれば幸せを見出せる」と言っているわけでそれに対して「なんとも気が滅入る」と言っています。

しかしそうであれば日本人のように人の顔色を見て空気を読み人に合わせることに長けた民族が毎朝辛そうに・面白くなさそうに会社へ行く人が多いのはどういうわけなのでしょうか。幸福度の調査でも海外に比べて日本は幸福度が低いのは何故なのでしょうか。

こういう本好きですね。
自分の頭の中で熟成して何か化学反応起こしてくれそうです。お金がなくても思わず買ってしまいます。

上記でいうナラティブ(英語:narrative)とは「物語」という意味です。

ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教、仏教などの宗教の話もあり、特に仏教に関しては、日本人に関与することであり非常に面白かったのでまた抜粋しました。

仏教の伝承によると、

ブッダは、自分の教えをたった一つの法則に要約した。

苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から完全に解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである、というのがその法則だ。

仏教徒とは、この法則を信じ、それを自らの全活動の支えとしている人々だ。

一方、神への信仰は、彼らにとってそれほど重要ではない。一神教の第一原理は、「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」だ。

それに対し、仏教の第一原理は、「苦しみは存在する・それからどう逃れるか?」だ。

仏教は神々の存在を否定しない(神々は、雨や勝利をもたらすことのできる強力な存在として説明されている)が、苦しみは渇愛から生じるという法則には何の影響力も持たない。

もし、ある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。

(中略)

だが、仏教徒の九十九%は涅槃の境地に達しなかったし、いつか来世でそこに達しようと望んでも、現世の生活のほとんどを平凡な目標の達成に捧げた。

そこで彼らは、インドではヒンドゥー教の神々、チベットでは、ボン教の神々、日本では神道の神々というふうに、多様な神を崇拝し続けた。

・・・・・・

なるほど、だから日本では仏教も神道も矛盾を感じなく存在しているですね。
ようやく納得。

日本の仏教は中国大陸から入ってきた過程ですでに本来の仏教と異なり日本国内でさらに独自化しました。仏教が葬式仏教と言われて数百年以上が経ちますが次第に仏教は「あの世」、神道は「現世」を取り扱うという住み分けができたのです。


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