AERAのデジタル配信で面白い記事を見つけました。
劇作家・演出家の鴻上尚史が相談者からの悩み相談を受けて回答しているのですが、その相談内容が私が思っていることとよく似ており、それに対する鴻上尚史の回答も私とほぼ同じだったからです。
年寄りを嫌悪する相談者
【相談73】お年寄りにも優しい感情が持てず、自分が歳を取ることに恐怖を感じます(52歳 女性 パトリシア) 現在、52歳で一人暮らしです。息子が二人いましたが次男は2年前に亡くなりました。
その頃、夫とも離婚しました。長男は、結婚し、子どももいます。元々、一人が性に合っていたのか寂しさなどはなく、仕事もあり、今のところは食べていくには困らず、まずまず中年女としては恵まれている方なのかもしれません。
ただ私は、歳を取ることにものすごく恐怖を感じています。「老後が心配」とか「一人で死にたくない」などではないのです。しわしわで思考力がなくなり、ただ生きているお年寄りに対して、嫌悪感が強いのです。じゃあ、女流作家のように生き生きして、しっかりしている人ならいいかというと、それも嫌いです。
とにかく、突き詰めてみると「年寄りが嫌い」なんだと思います。だから、だんだん歳を重ねていく自分も嫌いなんだと思います。想像するだけで死にたくなります。
老人に対する気持ちが私と同じなので驚く
私も相談者であるパトリシアさんと同じ感覚を持っています。以前にも私のブログにも書いたような気がするのですが、私は老人、高齢者に嫌悪感を持っています。
その理由は、老人(高齢者)は身体が醜い、汚い、臭い、のろま、だらしない、すぐ切れる、ボケていると思うからです。
しかし老化は誰もがなるものであり、当然私も老化して上記のような老人になる可能性が十分あり、またおそらくなっていくのでしょう。
つまり年を取って醜い姿になり今までできたこともできなくなる自分に嫌悪するのです。
そしてそうなっていく自分に対して恐怖を抱いているのです。
現在の老人(高齢者)は私の近未来像なのです。それに危機感を持ち、そうなりたくはないと強く思うのですが老化は自然の摂理であり誰しもが年を取りその先には死があることもわかっています。
このことを淡々と受け入れることができればいいのですが、ついあがいてしまうのです。
心理学や脳科学では相手を嫌悪する理由はその相手の中に自分と同じものを見つけているからだと言います。
つまり嫌いな相手が自分と同じような性格を持っているというわけです。
この場合では嫌悪する老人の中に近未来の自分の姿を見ているのです。だから嫌悪するのです。そして恐怖するのです。
これが分かって以来その嫌悪感は少し和らぎましたが未だにこんな老人にはなりたくないと思う気持ちも強く持っている自分がいます。
私は老化を恐れ死を恐れているのです。
「今より老化する自分」、「死の床についている自分」を描き切るとこが出来ないのです。
私は子供時代から神経質なタイプでしたので人一倍こう言った感情も持つのかもしれません。
さて鴻上尚史の回答はどうだったでしょうか。
鴻上尚史の回答
私と同年代の鴻上尚史は下記のように回答しています。(一部抜粋)
「老い」は、そして「死」は人間にとって根本的な問題です。哲学の、人生の根本問題はこれしかないと言ってもいいかもしれません。あ、「恋愛」も入れたいです。なので、簡単に結論は出ません。
ですからパトリシアさん、「歳を重ねることに肯定的になるには具体的にどうすればいいですか?」と書かれていますが、それはつまり、「老い」をどう受け止めるのか、または、受け止めないのかを考えることだと思います。
「老い」は、考え方ひとつで肯定的になるようなものではないと思います。
「老い」は、間違いなくいろんな意味での「劣化」だと思います。それも「死へとつながる劣化」です。
その冷厳な事実をどう受け止めるのか。
そして、やがて自分がそうなった時には、どうするのかという問いかけに移りました。もちろん、まだ結論は出ていません。
でも、「老い」は着実にやってきます。「どう老いるか」という思考は、突きつけられます。 パトリシアさん、僕が言えるのはここまでです。
「どう老いるか」「どう死ぬか」は、一人一人、切実で特殊な問題です。僕には僕の、パトリシアさんにはパトリシアさんの個別の答えしかないと思います。
まだ52歳ですから、考える時間は充分あると思います。「どう老いるか」をゆっくりと考えてみてはどうでしょうか。
それがそのまま、「年寄り」に対する態度へとつながると思います。
まとめ
老人への嫌悪感を持つ自分はどうしたらいいのかという問い合わせに対してどう回答すればいいのか難しいところです。
私も退職(リストラ)してから老人への嫌悪感を強く持つようになったということは自分が老人への一歩を踏み出したからでしょう。
こんな老人たちと自分を一緒にするな、という気持ちがどこかに強くあったのかもしれません。
どこの山でも登ることができるような強靭な脚を目指して筋トレを始めましたが今では筋トレの方がメインになっているのも老人になりたくないという気持ちが全くなかったかと問われればちょっと躊躇してしまいます。
もっとも純粋に筋トレで筋肉をつけたいという思いがありそこには年齢は気にしていませんでした。ただし関節を故障したり筋肉痛の回復時間が遅いと「もうジジイか」なんて弱気になることも正直あります。
しかしこの年になっても成長し続ける筋肉や心肺機能は私に生きる喜びを与えてくれます。
どんな書物を読もうがどんな感動する映画や芝居を見ようが「肉体が生を実証してくれている」のです。これほど生に対してインパクトのある事実はないでしょう。
この辺から私の死は「肉体の成長がなくなり」「思うように動けなくなった」時に自ら迎えるものになるのではないでしょうか。
どう生きていくかによって死に方も決まってくるような気がします。
私は決して長生きがいいとは思っていませんし、したくもありません。
しかし死ぬまで忙しくしていればこんなことを考えなくても済むような気もしますね。
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