アイキャッチ画像:NHK
緊急事態宣言が継続されることに決定になりました。
政府の話では3回目の緊急事態宣言より少し緩和した要請になるようですが東京都は要請内容に変更はしない雰囲気が漂っています。
ワシントンポストでは東京オリンピックは中止すべきでIOCのバッハ会長は「ぼったくり男爵」だと言っています。
ちなみにその英字新聞の原文では”Baron Von Ripper-off“とあります。
Baronは英語で男爵。Von(フォン)はドイツ語で貴族の称号とか英語の”from”や”of”の意でそこから「〜出身」という意味もあります。
さらに”rip off”は「盗む」「かっぱらう」という意味。そこから「盗み出身の男爵」→「ぼったくり男爵」となったようです。
「ぼったくり男爵」と名訳?した翻訳した人は翻訳の達人ですね。
イギリスの複数のメディアも東京オリンピックは中止すべきだと伝えています。
確かにIOCなどオリンピックで生活しているのですからオリンピックが中止になったら大変です。
オリンピック憲章など彼らから見れば「絵に描いた餅」なのです。
しかし日本のどの新聞・テレビに東京オリンピックは中止すべきだという記事を一面にあるいは社説を載せている新聞があるでしょうか。
政府や東京オリンピックに関わるメディアの大手スポンサーに忖度しているのでしょうか。あるいはオリンピックによる視聴率、販売数を勘案して何も言えないのでしょうか。
何れにしても日本のメディアはジャーナリズムより損得勘定を重視していることに変わりはありません。
日本のメディアは自分たちが思っていてもなかなか言えないことを海外のメディアが言えば、即それを国内に流すのです。海外のメディア、特にアメリカのメディアが言えば日本のメディアは自分たちの代弁者として扱うのです。
こういった海外情報を日本向けに流すことが日本のメディアの常套手段です。
「虎の威を借りる狐」のたぐいです。
実に情けない話です。
昔新聞はオピニオンリーダーだという日本の新聞記者自身が言っていましたが、それはもはや化石です。
しかしこれは日本のメディアだけの現象ではありません。
一般の日本人にも当てはまる場合が多いのではないでしょうか。
どうして日本人は自分の意見を素直にストレートに言えないのでしょうか。
別の言い方をすれば、なぜ「議論」できないのでしょうか。
たとえば、ある会社内の営業会議で経営不振を打開すべく営業マンたちが話し合っています。
Aさんは国内需要の拡大を図るべきと主張し、Bさんは国内市場はもはや底なので海外市場に目を向けるべきと意見が割れています。
周囲の営業マンも大方このAさんとBさんの2派に分かれました。
しかし話は延々と平行線をたどり結論が出ません。
さらにAさんはBさんに「国内の掘り起こしも不十分なまま海外市場へ手を出して損失を出したらどうするのだ。責任を負えもしないのに安直なことを言うな。」といいます。
すかさずBさんは「国内市場ばかりに目を見ているから他社に出遅れているのだ。そんな内向きな性格はこれからの日本の会社には不要だ。」
話は互いの人格問題へとエスカレートしていき肝心の経営不振の打開策から離れていきました。
ここで議論とは「経営不振の打開策を互いの意見を持ちよりすり合わせをすることから始まり、互いの意見のメリット・デメリットを述べ合うことで打開策を見出す」ものです。
それが感情論、人格論に行き着くのが日本人のいわゆる議論なのです。
したがって到底解決策は見出せません。
これは日本政府の東京オリンピックのあり方にも通じます。
上記のような議論ではなく「闘論」しかなされず十分な打開策を見出せないまま、先送りをしたり中途半端な折衷案を出したりしてしまうのです。そこには「中身」はありません。
これによって新型コロナ感染の拡大、ワクチン入手の3ヶ月遅れを生じさせてしまったのです。
私は東京オリンピックはかなり以前から中止すべきだとブログにも書いています。
どうしても東京オリンピックを開催したいならば、菅政権は国民に向かって
・なぜ日本国民の生命の危険を冒してまで東京オリンピックを開催しなければならない理由
・どんな感染防止対策を持っているのか
・東京オリンピック開催の条件と中止の条件を数値で示す
を明確にわかりやすく説明しなければなりません。
菅首相だけでなく他の日本の政治家にも言えるのですが説明責任を果たさず無理矢理やろうとするから国民から反発を買うのです。
政府の、菅首相の明確なビジョンがない、見えないので国民は苛立ちオリンピック開催中止に賛同するのです。
きちっと説明すれば理解してくれる日本人も増えるかもしれません。
日本の政治家って本当にこういう説明の才能がないのです。
彼らは単にスーツを着たサルなのです。と言ったらサルに失礼か。
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