アイキャッチ画像:朝日新聞
12月4日NGO「ペシャワールの会」の現地代表中村哲医師がアフガニスタン東部の紛争地域で銃弾に倒れ死亡したというデジタルニュースを読みました。初めから中村医師を狙ったテロ行為だったようです。
アフガニスタンは相変わらず紛争しており多くの国の外務省、NGOや難民救援団体が活動していますが、一方で彼らの多くが銃弾で殺されたり金銭目的に人質に取られたりしています。
私はその記事を読んだ時「あっ、彼はまだボランティア活動していたのか」というのが率直な感想でした。
もう20年以上も前になるのかそれすらも忘れかけている頃の話ですが、当時私は仕事に行き詰まっていたのかNGOとかNPOのような海外ボランティア活動の仕事に興味を持っていました。
もともと若い頃から海外での仕事に興味があり日系企業から紆余曲折しながらも転職して外資系に入ったのですがこの仕事を続けていいのかと疑問や不安があったのでしょう、海外ボランティア活動に興味を抱いたのです。
なぜボランティアかというと会社での営利目的の仕事に嫌気がさしたのかもしれません。
それでそれらに関する色々な雑誌や本を読んだうちの一冊に中村哲医師の「医者 井戸を掘る」がありました。
本の内容はもう忘れてしまいましたが、この時私は「ペシャワールの会」にメールか手紙を送ったのです。おそらくどうすれば貴社で活動できるのか、といった内容だったと思います。
その返事が手書きのハガキで来ました。「何をしたいのかではなく、何ができるのかです。」という内容だったと思います。中村医師からではなく広報か事務局の方からでしょう。
そこで私は「自分に何ができるのだろうか」と悩んでしまいました。医師でも看護士でもなく、建築、土木工学を専攻したわけでもなく、井戸を掘るような重機を扱えるわけでもない、何もできない人間だと思い応募を諦めたのでした。
つまり結局はその程度の関心、興味しかなかったのです。いかに自分は無能であり何もできない人間、だからサラリーマンにしがみつくしかないと自虐的になったのかもしれません。もう記憶が薄れていますが。年をとるとこういう苦い思い出がオブラートに包んだような感じで思い出されます。
中村医師は過去日本の国会にも招待されて講演(レクチャー)したことがあるのですが、国会議員からヤジが飛んだらしくそれに対して「私は請われてここにきたんだ!」と言っていました。気が強く、日本の組織ではつまはじきされるタイプだなとその時は思ったものです。
それにしても当時感じた日本の国会議員の彼に対するよそよそしさ(冷淡さ)は今でも似たり寄ったりでしょう。彼らは本当ローカルな人種ですから。安倍首相が追悼の意を表していましたがあれは単なるパフォーマンスですね。
アフガンで現地の人が不可能と言って当初協力的ではなかった農耕用のかんがい用水路を作る作業を進めついに完成させて緑の大地を作ったのです。不屈の精神というのか「やるんだ!できるんだ!」という確固たる信念があったのでしょう。それでもそれだけであれだけのことができるものなのかな。何が彼を突き動かしたのでしょうか。
いずれにせよ何をするのも中途半端な私に欠けているメンタリティを彼は強烈に持っていたことには間違いありません。
享年73歳。ご冥福を祈ります。
死は突然訪れる
合掌
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