社会

パリオリンピックの柔道における武士道精神とスポーツ概念のズレ

アイキャチ画像:中日新聞

猛暑が続く中夜遅くまでパリオリンピックを見ています。

やっぱりと言うべきか、個人主義で組織だったことが苦手なフランス人にはあちこちでトラブル続きのオリンピック運営は重荷のようです。

さてそんなパリオリンピックですが日本よりも柔道人口は多いフランスでのオリンピック柔道はどうなったのでしょうか。

パリオリンピックの柔道は本当に審判ミス多発?

パリオリンピックでの審判の判定ミスが物議を呼んでます。日本に関するだけでも柔道、男子バスケットボール、男子サッカーなど。特に柔道はイタリアが国際柔道連盟に公式にクレームを入れたほどで、毎回審判の誤審が問題視されているのになかなか改善していません。

さらに選手たちのマナーの悪さも目立ちます。柔道だけでなく日本のあらゆる武道は、「礼に始まり礼に終わる」と言われていますがそれを無視する選手も出てきておりさらにそれを注意しない審判もいます。

いまや「柔道」は「JUDO」になってしまい武士道精神がなくなってしまったと嘆く日本の中高年も多いはずです。

しかしたとえ日本発祥のものでもグローバル化するとその地の文化に合ったものに変化していくのが必然とも言えます。

例えば、キリスト教です。ユダヤ教徒だったイエスが死んだ後パウロなどの使徒がキリスト教を広めて以来、カトリック教、プロテンスタント教、ギリシャ正教と分かれ、さらにプロテスタント教はカルバン派、ルター派、イギリス国教会などに分裂して広まっています。

それらの派からさらに数多くの諸派が出てきて今に至っています。

その理由はその地にもともとあった原始宗教、文化との融合があります。またキリスト教を広める人たちも人間ですからキリスト教教義の解釈が全て同じというわけではありません。キリスト教の伝道者の現地での伝道の仕方にも依るのです。そのため各派に分かてしまうわけです。

またそのほうが地元にキリスト教が浸透しやすいのです。

日本の武道も同じことが言えます。

たとえ外国人が日本で武道を学んで自国に帰ってその武道を教えても時とともに母国の風土に合った武道に変化していくのが自然と言えます。

したがって各国の柔道選手はその国の国民性が融合した柔道でオリンピックに臨んでいるのです。それは審判も同様で考え方がそもそも日本人とは異なるのです。

いやそれは違う。「きちんと日本の柔道精神、武士道精神を教え込む必要がある。」というのももっともな話ではありますがそれは現実的ではありません。あるいは勘違いしているのかもしれません。この辺は後述説明します。

柔道だけでなくあらゆる有名無形のものはその国の風土にあったものに変化するのです。

柔道には講道館ルールと国際ルールの2つがある

その良い例が柔道のルールです。オリンピック銀メダリストの溝口紀子さんによれば、柔道のルールには講道館ルールと国際ルールの2つがあり、日本人はどうも講道館ルールを見慣れてしまって国際ルールを理解していないと。

また国際ルールはよく変わるので日本人選手も戸惑うことがあるそうです。

したがって一般の日本人が審判ミスと思うことでも国際ルールでは正しい判断だったということもあり得るのです。

あの60kg級の永山選手が決勝戦で誤審で負けたとSNSで日本人が騒いでいましたが、あれは審判のミスではなく永山選手が「待て」のときすでに「半落ち」してしまった可能性が高くその時点で日本(講道館ルール)でも「1本」を取ることがあるそうです。

ただ個人的には「待て」の次に「一本」といったのでは整合性がとれなくなるので審判の信頼性を失う行為だったとは思います。

モンゴル人横綱は品格に関心がない?

相撲はもっとはっきりしています。日本の相撲部屋で日本人親方に鍛えられたモンゴル人でも勝つことが最上でありそれ以外は気にしないという発想を持ちやすく、ましてやあいまいな品格などには関心がありません。

なぜなら彼らはお金を稼ぎに来日したのであり日本の文化を学びに来たのではないからです。

勝たなければお金を稼げません。当然のことながら勝つことが至上になります。

そのため品格を身につけることなど鼻からなくお金第一になるのです。

そんなモンゴル人に日本人は大相撲というプロ格闘技でなぜ「品格」を求めるのでしょうか。

またそもそも大相撲に品格なるものがあるのでしょうか。

たとえば、なぜ大相撲から八百長がなくならないのでしょうか。品格を持った関取は八百長をしないでしょう。またそのような環境下にあることに対して改善を求めるでしょう。なぜそれをしないのでしょうか。

日本人の関取もモンゴル人同様品格などないのです。

昔から大相撲は見せ物なのです。八百長がなくならない以上そう割り切って楽しめば良いのです。

日本人の「潔さ」は誤解を招く

話は戻って、審判の判断に疑問を持ったのであればやはりきちんと説明を求めるべきです。

それが日本の武士道精神の「潔さ」に反すると考える人もいるでしょうが、決してそうではありません。

疑問をもったならば説明を求め、その説明に納得いく・いかないに関わらず最後は審判の判断に「潔く」任せることこそ正しい行為なのです。

ただし、そのクレームの入れ方にはやり方があります。審判団に興奮して怒鳴り込むコーチもいましたし、大の字になって反抗する選手もいました。

これらの行為こそ非常に幼稚であり武士道精神の「潔さ」に反する行為なのです。

日本人はきちんと説明を求めずすんなり結果を受け入れる傾向がありますが、この結果日本人はおとなしく何でも自分たちの言いなりになるなと勘違いする外国人が出てくるのです。

日本人の持つ潔さは時として外国人から誤解を招きやすくなるので「言うべき時ははっきり言い、退く時はさっと静かに退く」ことが肝要です。なかなか難しいことではあるのですが。

そもそも武士道精神って何?

それではそもそも武士道精神って何でしょう。分かっているようで分かっていないのでちょっと調べてみました。

ウィキペディアによれば、

武士道(ぶしどう)とは、日本近世以降の封建社会における武士階級の倫理道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般をさし、広義には日本独自の常識的な考え方を指す。

また武士道は仏教、神道、儒教の影響を強く受けています。

仏教からは「運命を受け入れ運命に静かに従うこと」「死を恐れないこと」

神道からは「愛国心」「忠誠心」

儒教からは「五倫」(親・義・別・序・信)「知行合一」

の影響を受けています。その中でも儒教の影響が一番強いらしい。

そして武士道精神には7つの徳(特性、要素)で構成されています。(新渡戸稲造の武士道から)

・義(正義)

・勇(勇敢)

・仁(情け。慈悲)

・礼(敬意)

・誠(誠実さ)

・名誉(個人の誇り)

・忠義(主君への忠誠)

上記から考えられる柔道における武士道精神とは「勇」、「礼」、「名誉」が強く絡んでいますが、日本の柔道、さらには他の競技選手にはさらに「忠義」が絡んでいるように思います。

この場合の「忠義」というのは日本という国家に対する忠義です。日本選手は負けると「申し訳ありません」と応援してくださった人たち(大きく言えば日本国民全体)に向かって謝罪します。

しかしこれって必要でしょうか。そんなことするのは日本と中国あたりだけしょう。中国選手は共産党の方針による異常な愛国教育の結果において負けると(中国国民から)謝罪を強制されるのですが日本の場合は愛国教育はしていないのでなぜ謝罪するのかわかりません。

おそらくですが、日本人の他人の目を気にする性格が災いしているのでは思います。

諸外国などは「勇」と「名誉」が最も強くそのほかは弱いか無いに等しいでしょう。

柔道に関して言えば、旧ソ連の「-スタン」がつく国家などは歴史的背景から闘争心の強い国なので特にその傾向が強いのです。彼らに武士道の「礼」、「誠」、「義」など期待するほうが間違いなのです。

スポーツに武士道精神を持ち込むことから起こる誤解

先述の通り武士道には7つの要素から構成されていると新渡戸稲造が言っていますが、武道はこの精神性を持っているのに対し、スポーツは古くは古代ギリシャ・ローマ時代の格闘技であり近代ではイギリスで形成され誕生した概念です。

基本はフェアープレー精神ですが現在それはプロサッカーなどには通用しないことは周知の通りです。

柔道はもともと2つの柔術が合体して柔道になりましたが、明治時代にヨーロッパのスポーツ概念が入ったため柔道は体育教育の一環として日本全国に広まったのです。しかしそこには(おそらく軍国主義時代の影響もあってか)武士道精神が残され現在に至っているのです。

したがって柔道はスポーツとして拡大しながらも根底には武士道の概念は色濃く残っていったのです。

今だに柔道ならびに剣道、合気道、空手など日本の武道はスポーツとしての顔を持ちながらも武士道の精神性を持ちあわせているのです。

つまり二面性を持ちながら競技をしているので日本人同士の競技なら問題なくても対外国人との競技になると問題が出てくるのです。その典型的な例が「礼」ですね。

他者への敬意がないと日本人はたとえその選手が勝ってもを勝ちを認めませんから。

ここに武道とスポーツの概念の違いがあり日本人が純粋にスポーツを娯楽として楽しめないのです。

欧米ではスポーツは娯楽なのです。

終わりに

日本人の持つ精神性は何だろうとたまに考えます。

日本人は自ら無宗教と思っている節がありますが、しっかりと仏教、神道や儒教(厳密には宗教ではない)の影響を受けています。武士道精神はまさにその上に立っているのです。

その影響は日常生活から始まり日本社会の原形をつくり、そして高品質な日本製品へとつながっています。

W杯サッカーを見てても海外選手の目にあまる反則行為には無性に腹が立ちます。なぜあんな反則行為をするのか理解できないときがあります。

しかしその反則行為をする選手の多くは移民もしくは貧困層出身者です。

日本的に言えば「親の躾が悪かった」のです。貧困な親たちは子供達に物事の善悪など教える暇などなくその日の生活で精一杯だったのです。その後ろ姿を見てきた子供たちが選手となって平然と反則行為を行うのです。

移民が多くなりその移民の犯罪件数も飛躍的に多くなった日本において、いつまでもW杯サッカーのような反則選手が出ないような社会であって欲しいものです。

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