断捨離しているので年賀状はもう出していないのですが、北海道の友人はそれをわかっていて年賀状を出してきます。そのためメールで返信しました。
多分私が人・物を断捨離していること、無職であること、(突然始めた)ソロ登山をしていることなどから「生きているのか」「ちゃんと生活しているのか」と心配・好奇心半々で年賀状という形で様子伺いをしてきたのでしょう。
そのお礼がてらに送った私のメールとその友人から返信メールからふと考えてしまったことがあります。
私からのメール
・まだなんとか生きている
・年末年始実家に行った
・認知症で夜中徘徊している母が今年卒寿になるらしい
・親戚はほとんど亡くなっているのでもう実家には誰も来なくなった
・昨年は長梅雨と台風で山にあまり行けなかった
・ブログでの広告収入の当てが外れ預金が枯渇してきた
・日本の老人が大嫌い
・老人化恐怖症と経済的理由で70歳頃に「ポックリ」逝きたい
友人からの返信メール
・何はともあれ元気そうで良かった
・まだ山に行っているのはすごい
・(私の母が90歳になることを非常に驚き)生きているだけですごい
・自分たちはとてもとてもその歳までは生きられない
・インフルの予防接種を受けたのに正月明け高熱を出して今寝込んでいる
・(難病指定されている)病気持ちの自分には予防接種してもウィルスの感染がしやすい
・仕事(フリーライター)が徐々に減ってきた
・お互い今年もなんとか元気で生きていこう
以上
かいつまんで書くとこんな感じです。
友人からのメールは素直にうれしいと実感
友人からの基本情報は「高熱を出して寝込んでいる」「インフルの予防接種を受けた」「ウィスルスに感染しやすい」「仕事が徐々になくなってきた」の4つだけです。
たわいのない内容ですがなんとなくいつもと変わらない生活をしているんだなと伝わってきます。
私が驚いたのは「こんなささやかな」「とるに足りない」メールでもホッとしてちょっと嬉しく感じる自分がいたことです。
退職以来物だけでなく人も断捨離をしてきました。学生時代からの自分の写真もすべて破棄しました。過去を振り返って「昔は良かった」なんて過去を引きずるような後ろ向きの生活だけはしたくなかったからです。
それでも友人からの連絡は「素直に」嬉しいと感じる自分がいました。
生活費を稼げればもっとうれしい
もう丸4年近く東京では知り合いと誰一人会っていません。ひたすらジム、山、ブログ書きの生活でした。
これら3つは私が好きでやっていることです。ですから私は意外にもきっと幸せなのでしょう。ただ本人がそれを十分に自覚していないのです。
曲がりなりにも住む家があり、飯も食え、好きなことをやっている。これ以上何を望むんだ、なんて時々真にそう思うのですがそうは言っても「先立つものがね」となります。そう、やっぱり生活費を稼がなければならないのです。生活費がなければ住む家も失い、飯も食えないのです。
こんなとても平凡でつまらない考え方をしている自分に心底うんざりしますね。こんなにおバカだったんですね、私は。「今年こそ」何かガツンとした発想の転換が本当に必要と感じます。(毎年言っているような気がする)
しかし「今年こそ」なんてまるでドリームジャンボを買って外れた人がまた年末になると「今年こそ」なんて宝くじを買って同じことを繰り返すおバカとどこが違うのでしょうか。
やれやれやっぱりゴーンさんの爪の垢でも飲まないとダメですかね。もっともほんのちょっとでいいのです。あまり量が多いと悪事に染まりそうですから。
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